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中央区の日本橋から新橋に至る土地は、江戸時代の徳川家康の天下普請と呼ばれる大規模な埋め立てによりできました。晴海地区に工事に入ったのは明治初期で、月島四号地(晴海地区)約76haの埋立工事が完成したのは昭和6年(1931年)でした。
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昭和8年(1933年)には、東京市会で晴海への市庁舎移転(建設)が決議されました。しかし、立地等の条件で反対論が多く、翌年この計画は立ち消えとなってしまいました。
続いて、昭和15年のオリンピック東京大会と同時開催される予定だった万国博覧会の会場が計画 されましたが、今度は戦争のため中断となりました。
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港湾施設整備のため生まれた晴海ですが、第二次世界大戦中は軍需物資の輸送基地となり、陸海軍の倉庫や資材置き場として使用されました。
終戦後(1945年)、晴海地区は進駐軍に接収され、現在の晴海五丁目にあたる場所が飛行場として使用されました。
※ 進駐軍の占領は、昭和28年(1953年)から段階的に返還が始まり、昭和33年(1958年)に全面返還されました。
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昭和26年(1951年)以降、埠頭整備が本格化し、昭和30年(1955年)に晴海埠頭が開業(写真2)(写真3)しました。
また、それと同時に、第1回東京国際見本市(当初、晴海は仮設展示館による第2会場)が開催されました。
好評につき、昭和34年(1959年)の第3回国際見本市以降は 、恒久展示館(東京国際貿易センター)を晴海5丁目に建設(写真2)して見本市が開催(写真2)(写真3)(写真4)されていました。
その後、この展示館は「東京モーターショー(1959年〜1987年)」などをはじめ、さまざまなイベントに利用されました。
※ 晴海の展示会場は、施設の老朽化等により、平成8年(1996年)の東京ビッグサイト完成に伴い、その役目を譲り渡し閉場しました。
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昭和32年(1957年)には、公団の晴海住宅(写真2)(写真3)15棟(分譲240戸・賃貸430戸)が完成しました。
中でも、10階建ての公団賃貸住宅は、建築家前川国男の設計で、当時「都市住宅のモデル」として多くの人の注目を集めました。
また、翌年の昭和33年(1958年)には、晴海二丁目から四丁目にかけて、 臨港鉄道晴海線(写真2)(写真3)(公共埠頭線)が開通されました。
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昭和34年(1959年)からは現在の晴海五丁目一部の埋立工事が開始され、昭和41年(1966年)に現在の約106haの広さとなりました。
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平成24年(2012年)、晴海二丁目の土地区画整理事業の工事が全て完了し、現在も 大規模な住宅棟の建設が進行中です。
また、晴海二丁目の 防潮護岸工事が平成24年度に完了、四丁目の 防潮護岸工事が平成25年度に完了し、晴海の地区面積は、約109haとなりました。
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平成27年(2015年)、晴海三丁目のA2・A3・B街区が完了し、晴海五丁目の選手村予定地は都市計画決定・告示されました。また、豊洲・晴海開発整備計画が一部改定されました。
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平成28年(2016年)3月末をもって生コンクリート向上の解体工事を完了しました。晴海四・五丁目土地区画整理事業は換地処分の広告がされました。また、環状2号線の新橋―豊洲区間は、築地市場の移転後の平成28年12月を目途に暫定開通する予定です。
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